被災地を訪ねて (7)

気仙沼に戻り、港のレストランでほっと一息。なれど今となってはこの店が普通に営業しているのが不思議に見えるほど、短時間で震災の傷跡の深さを見た。陸前高田からの道すがら、土台だらけになってしまった住宅地を歩いていて子供のオモチャやら衣服やら食器やらを幾つも目にした。運転手さんからは、ここに書けないような話も聞いた。この人達が運悪くこういう目にあったのか、それとも俺達が運良く逃れてきたのか、ますますわからなくなった。だがこの光景だけは生涯忘れまいと思った。

帰りの電車までまだ時間があるので、港のまわりを歩いてみた。しかし夕刻に近づき寒さは更に増し俺はたまらずGiveup、近くの屋台村に逃げ込んだ。今日は夜までシラフでいようと思っていたがもうダメ。目についた店に駆け込み「何でもいいから酒ください」と頼むと「ハイボールならあります」と言うので即注文。飲みながらこの若いマスターにいろいろ話をきかせて貰ううち、ようやく体が温まってきた。あのとき現場にいた人しか知らない苦労とか痛みとか、今こうして向い合っているからこそ聞けるのだと思いつつ杯がすすむ。

ホロ酔い気分で気仙沼駅へ向かうべく、再度タクシーに乗った。陸前高田へ行って来たのだと言うと、この運転手さんは「わしらもあっちへは良く行くんですがね、なにしろ目印になってたもんがなくなっちまってるから良く道に迷います」と。なるほどこのタクシーにも、さっきのそれにもカーナビがない。尤も道そのものが変わってしまっているから、カーナビも役にたたないか。「わしも仮設住まいなんですが、給水タンクが凍っちまって水出なくなって参ってます」とも。

ああ、みんな被災者なのだと。この運転手さん達も、本当なら瓦礫の山じゃなくて、風光明媚な地元を案内したかったんだろうにと、この時改めて思った。

(続く)

 

祈念的極悪演奏会

友人から「東日本大震災祈念コンサート」なる招待券を貰ったので、読響を聴きに久々のサントリーホールへ。が、ロビーに足を踏み入れた瞬間に「む?」となった。普段と客層が明らかに違っているし、ケバいブルゾン姿の誘導係がそこら中に。背中にはヨーカドーとかでよく目にする某ブランドの名が。既にこの時点で強烈なヤバい感が漂っている。ちなみにこの演奏会、読響のサイトのカレンダーにもなかった。

そして開演と共に始まったのが、その誘導係らによる珍妙なパフォーマンス。それもBGMが「あの空へ~」ときた。Funky Monkey Babysのせいじゃないが、よもやここでこれを聞かされるとは思わなかった。そしてMCが本日の指揮者。東北がどうたら祈念がこうたらと延々聞かされた挙句、ステージに出てきたメンバーの顔ぶれを見て「これ本当に読響?」。期待はしない事にした。

1曲目、バッハのアリア。演奏はともかく、暇そうに座っている管と打の連中の顔が目につき落ち着いて聴けず。

2曲目、運命。ハナから「やりゃいいんでしょ」感プンプンで、聴くに耐えない。楽章の合間には客席から拍手が起こるし、繰り返しを全部やってくれたお陰で途中からは「早く終わらんかな」と祈念。

休憩中、同伴したトーシロさん曰く「今イチですね」。無理もない。

3曲目、新世界より。さすがにこれではイカんと思ったか、それとも早く帰りたかったか、タテも揃って鳴りもずっと良くなった。が、今度はお客様が疲れたか、演奏中にあちこちでお喋りやら咳払いやら鼾やらクシャミやら ・・・ そして最後は指揮棒が降りる前にBravo!(涙)。

これ自腹で聴いた気の毒な人、いるんだろか? せめてお詫びのアンコールぐらいやるべきだったんじゃないでしょーか>読響。

被災地を訪ねて (6)

峠を越え再度海沿いの道に出ると、前方に背の高い木が見えてきた。奇跡の一本松と呼ばれる、アレだ。いよいよここからが陸前高田市である。「根元まで行ってみましょうか」と運転手さんがタクシーを廻してくれた。そこで初めてクルマを降り、松の前で記念撮影となったんだが、参ったのはその寒さ。俺も寒いところの生まれなので気温の低いのには慣れているつもりだが、海からの風が強くて5分と立っていられない。「ここに海水冠ったとあっちゃ、そりゃひとたまりもなかったろうな」と思いつつタクシーに戻り、今度はいよいよ市街地に向かって貰った。そして再度クルマを降り、あたりを見渡して・・・

言葉を失った。

今この3km四方ぐらいのだだっ広いところに立っているのは、我々5人だけなのだ。犬一匹歩いてない。音もない。むろん店なんかない。運転手さんの言うのは本当だった。

それまで俺の頭の中にあったのは、自衛隊員やらボランティアやら重機やらヘリやらが忙しく立ちまわる、埃っぽい光景。だが今やそれすらも過去のものなのだ。「日が暮れたら真っ暗ですよ」という運転手さんの言葉に思わず目を閉じ、合掌した。震災前を知らない俺にしてこうなのだ。ここで暮らしていた人達、ここをよく知る人達の悲嘆は想像するに余りある。

腹もすいてきたので、我々は気仙沼に戻ることにした。

(続く)

被災地を訪ねて (5)

港を過ぎると、陸前高田に向けて道は一直線になる。右手には工場や桟橋が立ち並び、左手には大船渡線が並行して走っている ・・・ と、それはあの日までのこと。電車は走ってないし、線路から海側でまともな格好で残っている建物などひとつもない。そんな中、嫌でも目に入ってくるのが道端に残された第18共徳丸。その巨大な姿は、まるで何年も前からそこにあるかのように、すっかり風景の一部となってしまっている。むろんこの船だって好きでここにいる訳ではないんだろうが、あの下にはそこで暮らしていた人たちの大切な思い出があるのだと思うといたたまれない。

そこでふと時計を見ると正午が近い。運転手さんに「陸前高田で食事できるところはありますか?」と聞いてみると「ないですよ」とアッサリ。じゃタクシーとかバスとかは? と尋ねると「それもないです、なんにもないです」と言う。本当に~? という気分のままクルマは海を離れ、坂道を登りはじめた。

峠付近まで登って行くと、左右に仮設住宅が見えてきた。そこで気づいたんだが、気仙沼からここまでの間、スーパーとかコンビニとかを全く目にしていない。むろんこの周囲にもない。クルマもないんだろうし、ここでは生活物資をどうやって調達しているんだろうと心配になった。それに加えこの寒さ。平屋建てのプレハブが如何にも心許なくて、本当にあそこで人が住めるのかな、と思った。

(続く)

被災地を訪ねて (4)

このタクシーの運転手さんが気さくな人で、地元の言葉でいろいろ説明してくれる。それを聞きながら緩い下り坂を降りて行くと、徐々に津波の爪痕が見えてきた。そしていよいよ道が平坦になり、港の近くまで来るとそこからはもう、紛れもない「現場」だった。これまで繰り返し報道されてきた光景が、そのまま眼前に広がっている。その意味では驚きというのはなかったが、いまだに壊れた船やクルマが道端にゴロゴロしているのを見るにつけ、その現状はやはり厳しいのだな、と改めて思った。

そして暫く走り続けるうち俺は「どこか何か変だな?」と感じ始めていた。いったい何なんだ? と思っているうちにタクシーが信号で止まり、窓越しに近くを見た時、その理由がわかった。かつて家や店があったところが、みなこの道よりずっと低いところにあるのだ。つまりクルマは、台形に高く盛土された道の上を走っているのだ。畦道から田んぼや川を眺めているようなものか。ここでさっき運転手さんから聞いた「気仙沼で70cmぐらい沈みました」の、本当の意味がわかった。もし今この道沿いに何かを建てようとすれば、そこも同じ高さにしなければ道との間に段差ができてしまう上、洪水にでもなればすぐ冠水してしまうのである。

「気仙沼全体を嵩上げするって、いったいどれだけ金と時間がかかるんだ?」と思ったが想像もつかない。

(続く)

被災地を訪ねて (3)

一夜明け、ホテルを出て駅に向かう。ここで大船渡線の路線図を見ると、気仙沼から先に厚紙が貼られていて読めない。何だかブルーシートで隠されているみたいで痛々しい。そして発車時刻になったので「快速スーパードラゴン」なる2両編成のローカル線に乗る。周囲を見渡すと、恐らくウチらと同じ観光客らしき人が殆どで、中にはビデオカメラを手にしたジンガイさんも。

そして山の中をコトコト走ること1時間、終点・気仙沼駅に到着した。「ああ遂に俺は被災地に足を踏み入れるのだ」という緊張感で背筋を正し、改札を出た。ところが・・・

そこにあるのは山あいのひなびた駅前風景で、震災の痕跡など微塵も感じられない。
あの日以来「気仙沼」の3文字=悲惨な現場、というイメージでいただけに「これは思った以上に復興・再建が進んでいるのかな」と、その時は思った。そして釈然としないまま、我々はタクシーに乗り込んだ(レンタカー案は「危ないからやめろ」との意見で既に却下されていた)。

(続く)

被災地を訪ねて (2)

出発は2月10日、被災地訪問は翌日と決まった。だがこの1日しかないので、東北沿岸400kmをくまなく見て歩く時間などない。そこで今回は陸前高田市を目的地と決めた。今回最も被害が大きかったと言われるところで、TVでレポーターが「町がひとつ、そっくりなくなってしまいました」と表現した、あそこである。

宿もここでと最初は考え、調べてみたが、いかんせん「ない」。気仙沼も無理とわかり、最終的には一ノ関と決まった。ここまで新幹線で移動し一泊、翌日大船渡線で気仙沼へ移動。そこからレンタカーか何かで陸前高田に向かい、そこで昼食後に大船渡まで移動し一ノ関に戻る 、ぐらいの大雑把なプランでの見切り発車である。

そしていよいよ3代4名の御一行は2月10日夕刻、寒風吹きすさぶ一ノ関に到着した。なお以後、面倒なので俺以外の面々の行動と心象風景とは割愛させて頂くのでご容赦を。

(続く)

被災地を訪ねて (1)

3.11以来、事あるごとに「被災地のボランティアに参加したい」と口にしてきた奴が身近にいる。実は俺の母親なんだが、まだ足腰共に丈夫で、長いこと民生委員やら介護ボランティアやらをしてきただけにその気持ちは良くわかった。が、いかんせんこの女も八十路。頼むからそれだけは自重してくれと言ってきた。

だがその一方で義援金とか支援物資とかだけでなく、何かもっと踏み込んだ支援ができないもんだろか、と俺自身も常々思っていた。行かなきゃわからんところもあるだろうし、さりとて半端な気持ちで出掛けて行ったら迷惑になるだけだろうし、そもそもカネないし ・・・ とか色々考えているうちに年が明けた。

そんな1月のある日、気仙沼に「復興・再建屋台村」なる一角ができたと聞き、俺は遂にこう確信した。

「被災地への観光は、それだけでも立派な支援だ!」

被災地に赴き、地元のメシを食い地元の酒を飲み土産のひとつも買って帰る ・・・ 被災地が被災地と呼ばれる前と同じように。恐らく3月になればまた1周年とかで報道陣が殺到するだろうし、その前に被災地の「今」をこの目で見る。厳しい寒さもそのひとつだ。そうと決まればあとは実行のみ。こうして息子とオッカサンとその妹を誘い込み、3代4名での被災地見学ツアーが決定した。

(続く)