「肌身離さず」とは

それは俺が上京(=進学)して最初の年のちょうど今頃、近くの銭湯でのこと。

入湯料を払って脱衣所に入り、ロッカーの前に立っていると、そこへ湯から出てきた頑丈そうな体つきの男が来たので道をあけた。年齢はたぶん50過ぎ、頭は五分刈りで首から肩にかけて真っ赤に日焼けしていた。見るからに肉体労働者で、顔つきが怖かったので後ろを向き、目を合わせないようにしていた。

するとそっちの方から、不意に「ガシャッ」という鈍い金属音がした。「何だ?」と振り向くと、褌一丁のこの男が床から光るものを拾い上げていた。なんとそれは、ハーモニカ! それも複音の、でかい奴。それを腹巻きの中に仕舞いこむと、法被みたいなのを羽織ってそそくさと出て行った。

そのあまりに意外な組み合わせに、心底驚いた。そして「肌身離さず」とは、こういうのの事を言うのだなと思った。またそれと共に、あの男が仕事の合間にあのハーモニカで好きな旋律を奏でている姿を想像して、胸が熱くなった。


なぜこんな話を不意に思い出したのかというと「西南の役で没した或る薩摩藩士が、最期までアコーディオンを携えていた」という逸話について調べていて。そう言えば最近「ものを大切にしよう」と言う標語を聞かなくなった。それは果たして良いことなのか、悪いことなのか。