Pacific231をこの手で走らす

数日前のこと、全音からポケットスコアでオネゲルの「パシフィック231」が出ているのを知り、直ちに購入した。それをいつもの如く帰宅途中の車内で読んでいて、ふと手が止まったのは「スコア制作ノート」頁の「作曲者が編曲した4手ピアノ版を資料として比較検討 …」なる記述を目にした時。慌てて調べてみると、確かにそれは仏サラベール社から出版されていた。

「それを早く言えー!」

と心の中で叫び、すぐさま注文したのが今日届いた。

Apple iPad Air 2 (3.3mm, f/2.4, 1/1087 sec, ISO25)

そこでさっそく音拾いを始めてみたんだが、これがまあ最初から最後まで「臨時記号で不協和音」のオンパレード! てか、臨時記号のついてない音符のほうが少ない。譜読みに骨を折りそうなのは覚悟していたが、今度ばかりは予想を遥かに超えていた。恐らくプロのピアニストでも、これはさすがに「初見一発でカンペキ!」とはいかないだろう。

ただ音符の数はさほどでもなく、緩急強弱の指示も最低限で恰も「骨格標本」な感じでこれは肉付けが楽しみだ!  が、それは当分先になりそうですな。さしずめ今は「発車前の点検中」といったところ。まずはこの金属的不協和音を全部掌中に収めなければ ….

追記(11/10): これまで不協和音が効果的に使われる曲は幾つもやったが、それらにはいずれも何らか規則性があり、それを掴むとこっちのものだった。が、この曲にはそれがない。恰も主旋律(や対旋律)との間で協和音とならないよう、徹底的に背後の音を散らしている感じ。これらはもはや「伴奏」ではなくただの、いや「計算された」効果音である。やはりオネゲル、只者ではない。

ギーロッポでヴァーチャル登山な休日

この齢になっても「いちど生で聴いてみたい」と長年思っていながら、未だ果たせていない曲がまだまだたくさんある。特にリヒャルト・シュトラウスのそれが多いんだが、中でもかつては「派手なだけでxxxx」と揶揄されていた「アルプス交響曲」を遂に今日、サントリーホールで聴いてきた。指揮はおなじみ山下一史、オケは「俊友会管弦楽団」なるアマチュア。

結論から言うと、それは同じく初ナマな前半の「4つの最後の歌」ともども素晴らしい出来だった。アマチュアオケがこのホールでリヒャルト・シュトラウスのみなプログラムに挑む、それだけでも大変だろうと思う。が、今日の演奏はそういうのを差っ引いても素晴らしかった。

なぜならそこからは作曲者が「こう鳴らせ」と譜面に託した意図が、しっかり伝わってきたから。特に「アルペン」でのそれらは、ハラハラしながらの聴衆をも巻き込んでの「過酷な登山の追体験」。こういうのはアマチュアならではなのかも、とも。

こういう楽しいひとときを楽しみに、また明日からを生きていきたい。以上!

ハイビジョンの功罪

急に合唱アリな「だったん人の踊り」を聞きたくなり、以前に録画したN響のそれを探し出して大音量鑑賞。ところが見始めてすぐ、団員の顔ぶれと「若さ」に違和感を感じ始めた。そこで調べてみるとこれ、2007年(=実に12年も前)のN響音楽祭のそれだった。なるほど懐かしのメンバー多いし、現役さんはみな今より12歳も若い。すると徐々にその「違和感」の理由がわかってきた。

今でもたまに生前のカラヤンとかリヒテルとかの演奏を目にすることはあるが、それらはどれも良い意味で「古ぼけ」ている。それも古いほど顕著で、映像からそれらが収録された年代を類推できるほど。ところがデジタルハイビジョン以降はどれもクオリティが高くて、説明がなければそれが昨日なのか遥か昔なのか判別ができない。特にそれが故人の場合、あまりの生々しさに「本当にこの人死んどるんかい?」と感じることしばしば。

歴史的な映像に対し、そこに「古い写真」的な懐古趣味を求めてしまうのは昭和生まれの性なんだろか?