こういうのも音楽活動というのでしょう

Canon EOS 6D (24mm, f/4, 1/250 sec, ISO6400)

この週末は知人からの依頼で、市内某アマオケの定期に参加してきた。

Canon EOS 6D (24mm, f/4, 1/45 sec, ISO6400)

といっても今回は楽器ではなく、カメラ持参で撮影係として。こういう舞台の裏方は初めてだが、真剣かつ楽しそうに音楽と向き合う団員らの素顔をファインダー越しに見ていると、こっちまで元気になってくる。二日間で計300枚超、最後は打ち上げにまで加わり飲めや食えやで、それはそれは楽しいひとときでした♪

Panasonic DMC-GX7MK2 (300mm, f/5.6, 1/160 sec, ISO6400)

 

追記: 本番演奏中は6Dでパシャパシャという訳にもいかず、サブ機GX7mk2をサイレントモードにして三脚で固定、客席最後列からの撮影となった。さすがにマイクロフォーサーズでISO6400はキツいが、これ以下だと被写体ブレするし。ただこういうのを見るにつけ「やはり時代はミラーレスなのかな」とも。いい経験になった。

Canon EOS 6D (24mm, f/4, 1/10 sec, ISO6400)

Canon EOS 6D (24mm, f/4, 1/125 sec, ISO6400)

    Chaminade “Concertino pour flûte et orchestre”

    Cécile Chaminade

      映画「太陽の塔」

      結論から言う。こんな××映画を見るカネとヒマがあったら、岡本太郎美術館か記念館へ行ったほうが数段マシである。そして何より千里まで「ホンモノ」を見に行くべきだ。それは決して見る人を裏切らないと思う。

      これまでにも鑑賞半ばで諦めた映画は幾つもあったが、初公開の上映中に寝たのはこれが初めて。それも俺ひとりではなく、半分もいかないうちに館内すっかり「どよ~ん」な空気。途中で帰る人やらWC行く人やら、片肘ついて斜めになってる人やら続出で、エンドロールが始まるとイビキかいてた人たちも駆け足で出ていってしまった。

      俺はこれを予備知識ゼロで観に行ったんだが、開始早々インディアンみたいな女子が縄文土器抱えて出てきたところから既にヤバげな雰囲気。そしてそこから「これでもか」とばかりに延々と続く「訳知り顔なセンセー方の持論リレー」でもうすっかりウンザリ。

      と、そこへ唐突に来たのが事もあろうに「3.11」。「太陽」がよもやの「原発」に繋がれてしまった。呆れる一方「それならそれでハッキリ言え!」と思ったら、これまたヌルいまんまでオシマイ。

      作者たる「岡本太郎」の名が、利用されただけで不在な「太陽の塔」。こんなの映画とか作品とか呼べたシロモノではない。俺的ワーストが久々に更新された。全然嬉しくない。

      Canon EOS 6D (90mm, f/8, 1/90 sec, ISO6400)

      ※ 写真は本文とあんまり関係ありません

        衝撃の2連発

        Panasonic DMC-GX7MK2 (30mm, f/8, 1/60 sec, ISO5000)

        えら~く久々にHANAYAMAの「キャストパズル(今は「はずる」と言うらしい)」に挑む気になり、一昨日ハンズで購入したのが「キャストコイル」。★★★★なら数時間で外せるだろう、との読みで選択したんだが本日に至ってもそれは先が見えないまま、5分いじっては1分眺めの無限回廊に。白旗だけは避けたいと思いつつ、飽くなきチャレンジを続ける自分が愛おしかった。

        と、なぜかそこへ登場したのが我が息子。いい加減煮詰まっていたし「これやってみな」と手渡し、俺は鈴鹿F1を見ていた。すると5分としないうちに「あ、外れた」との無邪気な声が。え”!? と叫び振り返れば、正にアレがまっぷたつ。「なな、なんでデキたの!?」との問いに我が愚息「よくわかんないけど回してたら」と宣ってくださった。俺だってこの三日間、よくわかんないけどずっと回してきた。それを5分で外したコイツと、外せなかった俺。勝者と敗者。利口と馬鹿。親であるという儒教精神的威厳など、跡形もなく砕け散った瞬間だった。

        だがそこに残ったプライドの一欠片が、自力解決へと己を鼓舞した。そこで再度ゼロからのスタートとすべく、親子揃って元通りにしようと足掻いていた、すると …

        Panasonic DMC-GX7MK2 (30mm, f/8, 1/60 sec, ISO4000)

        壊れました(涙)。お陰様でクリアできました(大涙) 。てか、ちょい待てやコラー!

        そりゃイライラは募った。が、力任せに捻った訳でも放り投げた訳でもないのに、なんごてこないなガンテツが3日で壊れてまうズラね!? と日本各地の方言入り混じりで叫んでしまうほど、それはアッサリ壊れてくれた。「知的玩具」が一瞬にしてただの「壊れたオモチャ」となったのである。

        これ、¥1,200したのよね。修復の可能性も考えたが、それで満足してはコイツの在り方が変わってしまう。明日がちょうど「燃えないゴミ」の日なんだが、そこへ放り込むべきかどうか、いま真剣に悩んでいる。嗚呼、悲しすぎるぞ「はずる★×4」。

          そして誰もいなくなった … 「新潮45」編

          かつて「マルコ・ポーロ」という雑誌があった。ライバル誌が取り上げない後進国の紛争とか内戦とかを仔細に報じるなど、個人的には好きで毎号発売日に購入していたもんだ。

          ところがそこに「ガス室はなかった」という記事がどかーんと掲載された翌日から、発行元に世界中から非難が殺到。賛否の議論も一掃され、編集長と社長と共にあっさり「廃刊」となってしまった。あれが「噂の真相」とかだったらまだしも、文藝春秋社の「オピニオン誌」がナチスの大罪をウソと言ってタダで済む訳がない。以来他紙でもこのテの「トンデモ記事」は鳴りを潜めていた。

          そこへ今回の「新潮45」。つい今しがた、ニュースでその休刊を知った。販売を中止する書店が出たとか聞いていたし、当然だろうと思った。ところが驚いたのは、新潮社のこの決断を非難する声が少なくないこと。どうやらみな「言論の自由の危機」と「それに屈した出版社のモラル」を言いたいらしいが、そもそもこれは某与党議員の戯言に新潮社が便乗、結果的に「それで儲けようとした出版社のモラル」を問われた結果なのである。新潮社を非難するならむしろ、即刻「廃刊」が妥当なところを「休刊」と復刊の含みを残した女々しさでであって「マルコ・ポーロ」の方がまだ潔かったと、俺は思う。

          だが一方でこれは、こんな騒ぎでも起こさない限り部数の低迷から浮上できない「新潮45」の断末魔だったのだろうとも思う。果たして次に自滅するのはどこだろう(怖)。